公開書簡②(公式に天皇の号を用い始めた時代背景について)

公開書簡
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公式に天皇の号を用い始めた時代背景について

 今回のお願いに先立ちまして、あらためて確認する必要がある思われることがありましたので、記載しておきます。

 陛下におかれましては、すでにご存じのことですが、第三者がこの文面を見ても全体像を俯瞰できるように、Webサイトから得た情報をもとに、ごく簡単にまとめてみました。

 日本の歴史は長く、神代の時代から書き起こすと長くなりますので、ここでは古代の日本において、和名の君主号が「天皇」と呼ばれるようになったころからのことを書いてみました。

 飛鳥時代における世界とは、当時の日本(倭)にとって東アジアであり、もちろん朝鮮半島にも国がありましたが、特に中国(隋・唐)の影響力は特別でした。西洋社会はあまりにも遠く、この時代において直接的な交流は、まだありませんでした。

 この東アジアという国際社会の中で中心的な存在の中国から、遣隋使や遣唐使を通じて文化や技術が日本に導入されました。これは、当時の日本が国際社会に対応できるように、また東アジアの一員として成立するように国の制度を整えるためであったと思われます。

 倭の国は、国防の方法として中国(隋・唐)との間に外交関係を結び、中国を中心とした国際秩序である冊封体制の中に取り込まれました。冊封体制とは、中国の歴代王朝が東アジア諸国の国際秩序を維持するために用いた対外政策のことで、中国の皇帝が朝貢をしてきた周辺諸国の君主に官号・爵位などを与えて君臣関係を結んで彼らにその統治を認める一方、宗主国対藩属国という従属的関係におきました。

 七世紀初頭になると、日本はアジアの国際社会において頭をもたげるようになり、それが朝鮮半島との関係に影響を与えるようになりました。日本は百済に軍事支援ができるほどの実力を備えるようになり、それによって東アジアにおける国際的な地位が向上していきました。このため、中国の冊封体制から抜けだし、独立して日本と朝鮮半島にまたがる勢力を形成したい、といった野心を抱くようになったのかもしれません。日本は、六世紀以降この体制から離脱していました。天武・持統朝の日本は、唐からの冊封を受けず、独自の小帝国を目指したようです。為政者が国家意識を強くもったこの時代に、日本の国号・天皇号が成立したと考えても矛盾はありません。

 478年の遣使を最後として、倭王は一世紀近く続けた中国への朝貢を打ち切りました。21代雄略天皇は最後の倭王武に比定される人物でありますが、この雄略の実名と思しき名が記された稲荷山古墳出土鉄剣の銘文では中華皇帝の臣下としての「王」から「大王」への飛躍が認められるそうです。また、江田船山古墳出土鉄刀の銘文には「治天下大王」の称号が現れています。このことから、倭王が中国の冊封体制から離脱し自ら天下を治める独自の国家を志向しようとした意思を読み取ることができるという見方もあります。

 当時の朝鮮半島は分裂状態にありましたので、個々の国は日本よりも小さく、これらの国と比較して大国意識を持ち始めた、ということの影響もあったでしょう。それが中国だけでなく、うちにも天子(皇帝)がいるのだという意識を生み出させ、天皇という号が使われたことにつながったのかもしれません。天武天皇が公式に天皇の号を用い始めた人物である、とされています。

 ところで、中国の古書では、「三皇五帝の神話的伝説」というものがあり、人類に文明をもたらした文化の英雄あるいは天上の文化を人に伝えた文明の伝播者として尊ばれています。三皇を「天皇・地皇・人皇」とする説と「伏羲・神農・女媧」とする説があります。秦始皇本紀には天皇、地皇、泰皇を「三皇」とし、「太平御覧」に引く「春秋緯」でも天皇、地皇、人皇を「三皇」としています。ここに「天皇」という号が出てきます。

 また、古代中国では地上からは天空のある一点を中心として星々が巡っているように見えることを知っており、そこを北辰と呼び(天の北極に該当する)、宇宙の中心と考えられていました。そして神格化され、道教や日本で使われる称号の天皇にも取り入れられたとする説があります。宮内庁所蔵の孝明天皇の礼服は背中の中央上部にも北斗七星が置かれています。日本における天皇という称号の起源の有力な候補の一つと考えられています。

(Wikipediaより引用・https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kone.jpg)大袖 赤地に、袞冕十二章のうち、日、月、星辰、山、龍、華虫、宗彝、火の8種の模様が付く。各模様は刺繍であらわされる。建武四年の光明天皇即位のとき、別の絹に刺繍して貼り付けた。北斗七星を背上部に配する

 いずれにしましても、「天皇」という号は、古代中国の創造神話から由来する称号です。天皇(てんこう)は大地が生まれた頃に姿を現し、暦を定めるなどして、人が生きていく上での基盤を形成した、とされています。「天」は「天上の世界」のことで「皇」は「光り輝くもの」を意味します。つまり天の使いが降臨して、それによって中国という国が生まれたことになっているのです。

 また、現在、世界中に「王(king)」はたくさん存在するのですが、「皇帝(Emperor)」と英訳されるのは天皇だけです。「皇帝」とは、この「三皇五帝」から取られた称号で、統一を果たした秦の始皇帝が、自ら希望して定めました。五帝は中国全土の統一はしていませんでしたので、皇帝という号には「帝を超えた、神に近い者」といった意味が込められています。このように、「天皇」という称号は、創造神話的な宗教的意味を持つ称号といえるでしょう。

 さて、六〜七世紀ごろになると、日本でも国内の統一が進み、九州から関東地方にまたがって支配する、大きな政権が誕生するようになりました。この政権の主は「大王・おおきみ」という号を使っていました。それがいつの頃からか、「天皇」を名のるように変化します。これは推古天皇の代か、もしくは天武天皇の代だという二つの説があり、現在では天武天皇説が有力となっています。「皇」は「王」よりも格上の号ですので、当時の日本は自らを国際社会の中で格上げしたい、という意識を持っていたことが、この称号の使用からうかがえます。

 日本の統治者は、天照大神の子孫であるとされていますので、そうなると、天皇という号はぴったりとあてはまることになります。天照大神は太陽神ですので、「皇」という字が持つ「光り輝くもの」という意味が適合します。

 このように、「天皇」の名称の由来ははっきりと確定はできませんが、東アジアにおける古代中国の創造神話からの由来の称号であることは間違いないようです。

 ところで、江戸時代に来日した有名なシーボルトら三人の博物学者は、長崎の出島にちなんで「出島の三学者」と呼ばれます。「出島の三学者」の一人で、シーボルトよりも約130年前に来日したドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペルという人物がいます。ケンペルは1690年から二年間、日本に滞在して帰国後、「日本誌」を著します。

 この「日本誌」の中で、ケンペルは「日本には二人の皇帝がおり、その二人とは聖職的皇帝の天皇と世俗的皇帝の将軍である」と書いています。天皇とともに、将軍も「皇帝」とされています。1693年ごろに書かれたケンペルの「日本誌」が、天皇を「皇帝」とする最初の欧米文献史料と考えられています。

 「世界の外交の常識で言えば、総理大臣よりも、大統領よりも、国王よりも、エンペラー(天皇、皇帝)が最も“格式”が高いのです。首相や大統領はその時代の国民に選ばれた代表であり、国王は王家を継いできた人ですが、エンペラーは国の文化や宗教などを含めたもの、つまり“文明の代表”という位置づけになります。 東アジアにおける皇帝は、発祥の地である中国においては、すでに消滅してしまいましたが、日本は歴史的に見て、過去にその帝国に属していた経緯がありました。その歴史的な流れを汲む天皇という日本の称号は、古代中国の創造神話に由来するものであり、東アジアにおける創造神話を現代にまで受け継ぐ、唯一の存在となりました。

続く

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