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復活されたイエス・キリストと共に歩む自己救済 3その2

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エネルギーと農業

 私たちの脳は、より多くのエネルギーが得られるもの好みます。また、 飢えへの恐怖に対して敏感にできています。エネルギー収支の良さと、保存が利く食料を蓄えることができるという農耕の特性は、私たちの脳の関心を引きつけるには十分でした。

 一部の地域で農耕生活が定着するようになると、安定的に確保される余剰の食料によって、農耕民の人口が増えはじめたのです。それによって、生まれた新たな労働力が新しい土地の開墾を進めたことで、農地は確実に広がっていきました。また、数の力で農耕民は狩猟採集民を次第に圧倒するようになっていきました。こうして人類の生活基盤は、狩猟採集生活から農耕生活へと徐々に移行していくことになりました。

 農耕を始めたことによって人類は、大地に降り注ぐ太陽エネルギーをこれまでになかった規模で取り込むことができるようになりました。とり込まれる太陽エネルギー量が飛躍的に増えたことで、人類が使用可能なエネルギーである労働力、すなわち人的エネルギー量も人口増に比例する形で増えていきました。

 その効果は絶大で、研究による推定では、農耕生活が始まる以前の1万2000年前時点で、500万~600万人だった世界人口が、 1万年後の2000年前には約6億人にまで到達しています。人類が自由に使うことができる人的エネルギー量が、農耕開始前の約100倍に増えた計算になります。このような非線形の変化をもたらした農耕生活への移行は、火の利用に次ぐ、人類史上2番目のエネルギー革命であったといってよいでしょう。

農耕がもたらした闇

 農耕生活が定着、普及するに従い、やがてその競争相手に、最も強力で厄介な生物が加わるようになります。土地の支配、すなわちその土地に降り注ぐ太陽エネルギーの確保をめぐって人と人とが集団でいがみ合い戦う、現在にまで連なる戦争の時代の幕が上がったのです。戦争の勃発は勝者と敗者を生みます。古代において戦いに敗れた人たちは、程度の差はあれ、殺されるか奴隷されるのが一般的でした。人類が活用できる1番のエネルギー源が人的エネルギーであった古代社会では、人を隷属させることには極めて大きな価値があったのです。古代の文明社会は、奴隷の存在抜きに語ることはできません。文明を牽引する上位階層の市民は、下位階層である奴隷を使役することで、自らは汗水たらして働くことなく生活に必要な糧を得ることができたからです。

 上位階層者としての生活。これは私たちの脳にとって理想的な環境です。体内に取り込まれたエネルギーを奪い合う競争相手となる筋肉に対する脳の優位性が保証されているからです。ゆとりを得た彼ら上位階層者である脳の関心は、哲学や芸術といった、食料を得ることとは直接関係のない文化活動へと向けられるようになっていきました。

「ギルガメッシュ叙事詩」のフンババの物語

 フンババの物語。それは人類最古の物語として有名なギルガメッシュ叙事詩の中にあります。この物語は古代の英雄物語であると同時に、人類による自然破壊についての世界最古の文献記録でもあります。

 「ギルガメッシュ叙事詩」の主人公ギルガメッシュ王は紀元前2600年頃の南部メソポタミアで栄えたシュメール文明を代表する都市国家の1つであるウルクに実在した王でした。彼は立派な都市を建設することで不朽の名声を得たいと望み、盟友エンキドゥと共に森に分け入って大量のレバノン杉を伐採することを決意します。その森には半神半獣の神フンババがいて、シュメールの最高神であるエンリルからの命令により森を守っていました。

 文明の象徴ともいえる金属製の斧を携えてレバノン杉の森に分け入ったギルガメッシュ王とエンキドゥは、当初、森のあまりの美しさに心を打たれますが、やがて気を取り直してレバノン杉の伐採を始めます。木の伐採の音で目覚めたフンババは侵略者を見て怒り狂い、口から炎を吐きながらギルガメッシュ王に襲い掛かりました。激しい戦いののちフンババは敗れ、その頭を打ち落とされてしまいます。こうして守り神を失ったレバノン杉の森は全て切り倒されてしまったのです。これに怒ったのは最高神エンリルです。「大地を炎に変え、食物を火で焼き尽くす」と、エンリルは自然によるしっぺ返しを予告します。そしてその言葉の通り、天空神アヌによって7年間の飢餓が引き起こされたのです。

 いったん動き出した人類社会の欲望は止められないものなのです。それゆえ最高神エンリルは、フンババに森を守らせる必要があったのです。しかしながら、レバノン山脈上層部の大半を覆う石灰岩がむき出しの山肌が示していること、それは物語の作者の祈りが顧みられることはなく、フンババは確かに死んだのです。

 人類が築いた文明社会は、大規模な森林の伐採を伴いました。建築物や船舶用の建材としてや、陶器やレンガを焼いたり、金属を溶出させたりするための窯炉で使う燃料として用いるためです。エネルギーの視点から見れば、森林資源の利用もまた、農耕に次ぐ新手の土地に降り注ぐ太陽エネルギーの人類による占有ということになります。

 建材の代表格である杉の木の場合、建材として利用できる大きさに育つまでにおおよそ40~50年かかります。ヒノキの場合は、およそ50~60年です。つまり杉やヒノキの成木一本一本には、その土地に注がれてきた40年~60年分の太陽エネルギーが大切に保存されていることを意味します。文明社会における技術の進歩は、森林資源の伐採によるエネルギー供給によって支えられていたといって過言ではありません。

 文明社会の象徴ともいえる冶金の技術は、炉を高温に保つ必要から常に大量の木炭を必要としていました。建材資材の分野では、レンガを焼くことでそれまでの日干しレンガの弱点であった雨への弱さを克服した焼成レンガが発明され、さらに石膏を火に通すことでセメントになる焼き石膏が開発されます。こうした資材の生産にも木炭や薪は消費されることになりました。

 このような明らかな環境の変化に古代メソポタミアの人たちが気づかないはずがありません。彼らは森林資源の伐採と砂漠化の因果関係にある時点で気が付き、その保護の必要性は認識していました。そうした問題意識が、フンババを生み出したに違いありません。しかしながら、彼らは伐採の欲望を抑えることができませんでした。これが、常により多くのエネルギーを要求する人の脳の恐ろしさです。結果として、彼らの行動に歯止めをかけさせるために考え出されたはずのフンババは、いみじくも文明の利器の象徴的存在である金属製の斧によって葬りされることになったのです。

 再生不可能なところまで森林を伐採し、土壌環境を永久に変化させてしまう過ちは、古代メソポタミア文明や古代ギリシア文明に限らず世界各地の文明で繰り返され、多くの古代文明が衰退する大きな要因となりました。資源の再生スピードを上回る消費を行った社会は、そのどれもが長期的には資源の枯渇によって衰退する運命をたどったのです。

日本のお寺の見られる森林破壊の爪痕

 ところで、緑豊かな日本はこうした森林破壊とは無縁であるように思われるかもしれませんが、実のところ日本もその例外ではありません。

 日本では飛鳥時代から奈良時代にかけて、推古天皇から桓武天皇に至る間のおよそ200年間に21回もの遷都が実施され、そのたびに近隣の森林が伐採されました。特に平城京の建設では、東大寺を筆頭に巨大木造建造物の建築が隆盛を極め、大仏の鋳造とも相まって大量の木材を消費しました。結果として、畿内の多くから針葉樹と広葉樹が混交する自然林が消え、痩せた土地で育つ赤松の森へと変容してしまったのです。それまで頻繁に繰り返されてきた遷都が平安京造営の後、ピタリとなくなったということには、畿内近隣の森林資源が急激に喪失してしまったことも無縁ではないでしょう。

製鉄技術の完成・普及は、あらたな問題を生みました

 新たな時代への扉を開く試みが、イギリス中西部の溶鉱炉で静かに始まりました。石炭や鉄鉱石が豊富に産出したセヴァ―ン渓谷沿いにある溶鉱炉の所有者であったエイブラハム・ダービーが、薪と木炭に代わる燃料として、周囲に豊富に存在した石炭を利用することを試み始めたのです。ダービーは、石炭を蒸し焼きにすることで不純物を取り除いたコークスを作り出しました。このコークスを溶鉱炉で燃やすことで、石炭による製鉄法を生み出します。1709年のことです。その後、彼の息子であるエイブラハム・ダービー2世が父の意志を継ぎ、理想的なコークスを求めてさらに試行錯誤を繰り返し、同時に、大量生産を実現するために溶鉱炉の改良にも取り組みました。彼の努力は実り、1735年にコークスを使った製鉄技術の完成をみます。ダービー家の当主が、3代目のエイブラハム・ダービー3世に引き継がれていた1781年には、世界初の鋳鉄製のアーチ橋がセヴァ―ン渓谷にかけられました。1818年には、スコットランド・グラスゴー近郊にあるフォース・クライド運河において、鉄で作られた船である、バルカン号が進水します。このように様々な用途で、鉄材が木材にとって代わるようになっていきました。

 こうして人類は、文明の発祥以来ずっと悩まされてきた森林資源の枯渇による成長の限界という問題から、ついに解放されることになったのです。しかしそれは同時に、地球規模での気候変動につながる二酸化炭素の排出という新たな問題の種が蒔かれた瞬間でもありました。

本格的なエネルギー革命

 実用的な蒸気機関の発明といえば、18世紀後半から19世紀にかけてイギリスで始まった産業革命を代表する出来事です。エネルギーの視点から蒸気機関の発明を眺めた場合、真っ先に頭に思い描かれるのは、この発明によって本格的に石炭の時代が始まったということではないでしょうか。しかし、蒸気機関の発明が真に革命的であることには、別の理由があります。それは、エネルギーの形を変えたことです。

 蒸気機関が発明される以前の社会において人類が活用してきてエネルギーは、常に取り出したエネルギー形態が同じ形態のまま使用されてきました。例えば、火を使って調理をすることや、窯炉で銅鉱石を熱して銅を溶かし出すことを考えてみます。これらは薪や木炭を燃やすことで得られる熱エネルギーを使って、食材や銅鉱石を熱しています。つまり薪や木炭から取り出した熱エネルギーを、そのまま熱エネルギーとして使用していることになります。そこにはエネルギー形態の変化はありません。

 それでは蒸気機関は何を行っているのでしょうか。蒸気機関では、石炭を燃やして水を加熱することで作った水蒸気が持つ熱エネルギーを使ってピストンを動かし、運動エネルギーを取り出しています。そこでは蒸気機関によって熱エネルギーから運動エネルギーへとエネルギー形態の変換が行われていることになります。このエネルギー変換を実現した点こそが、それまでに人類が発明してきた水車や風車といった動力機械のいずれとも異なる蒸気機関の斬新さ、革新性なのです。

 ところで、産業革命の時代に石炭の利用が進んだのは、蒸気機関が石炭に熱源としての価値のみを求めたからです。第3次エネルギー革命を導いた主役は、あくまでもエネルギー変換を実現した実用的な蒸気機関の発明であって、石炭ではありません。

エネルギーの移送、変換を自由にしたもの

 第4のエネルギー革命の幕が上がったのは、ハプスブルグ家が統治する時代のオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーン、1873年にこの地で開催された万国博覧会にて、事件は起こります。華やかな万博会場の一角で、自ら開発した発電機を展示しようと準備をしている人物がいました。ベルギーのゼノブ・グラムという人物です。彼が開発した発電機は、これまでになく強力でかつ安定した出力を実現しており、彼の自信作といえるものでした。蒸気機関の傍に発電機を置き、そこから500メートル離れたところへ銅線を配線していた時、部下の技師が誤って銅線を別の発電機へと接続してしまいます。そのことに気がつかないまま蒸気機関を運転したところ、思わぬことが起こりました。銅線によってつながれた発電機の電機子が、くるくると回り出したのです。天才技師グラムは、それを見てすぐにすべてを悟ります。それは電気を使うことでエネルギーを簡単に移送できるということです。蒸気機関は第三次エネルギー革命をもたらす大発明ではありましたが、熱エネルギーを取り出す場所と、変換した運動エネルギーを消費する場所は同じである必要がありました。電気の利用はエネルギー変換の自由に加え、場の制約からの解放をももたらす力を秘めていたのです。このグラムの気づきが電気の時代を切り開く決定打となります。第4次エネルギー革命の幕が上がった瞬間です。

江戸時代の太平は有機肥料がもたらした?

 江戸時代の日本は、人口が倍増したのにもかかわらず265年にわたる太平を謳歌することができた、世界的にも極めて優れた社会でした。新田開発が盛んに行われてことに加え、肥料の供給体制も盤石で農作物の収量が着実に増加したことが社会の安定に大きく寄与しました。集落に近い里山からは、落ち葉や下生えを定期的に刈り取ることで堆肥を得ていました。加えて江戸や大阪などの都市では、近郊の農家が野菜を売りに街にやってきては、その帰りに肥料として使うための人糞をもらって帰る仕組みが出来上がっていました。人糞は無料で回収されたのではなく、価値あるものとして対価も支払われていました。南総里見八犬伝の著者曲亭(滝沢)馬琴は、成人一人につき、夏にナス50本、冬に干大根50本を受け取っていたと日記に書き残しています。

 街道筋に落ちている馬糞は、近隣の農家が先を争って持って帰ってしまうため道は常に清潔でした。5代将軍徳川綱吉の時代に長崎のオランダ商館に滞在し、商館長の江戸参府にも2度随行したドイツ人医師ケンペルが記録しているところによれば、馬糞どころか旅人が捨てていく古い藁草履や馬の沓(くつ)まで集めて堆肥にしていたといいます。江戸時代とは、究極のリサイクル社会だったのです。

 江戸中期以降は、人糞よりも軽くて栄養価も高い魚肥が広く普及して、魚肥を取り扱う専門の問屋が繁盛するようになります。千葉の房総半島はイワシを干し、突いて粉にした干鰯(ほしか)と呼ばれる魚肥の一大産地となっていましたし、高田屋嘉兵衛の活躍で有名な蝦夷地との交易でも、廻船問屋を商売へと駆り立てた原動力は、北の大地でふんだんに取れるニシンを使った魚肥の売買でした。こうして肥料が全国的な物流網にのることで、人口密度が低く人糞や馬糞の供給が少ない地域においても土地の生産性は向上していき、人口の増加を支えることができたのです。

究極のリサイクル社会の完成

 江戸時代の日本における肥料は糞尿と魚肥が中心で、それら全て同時代を生きた生物由来の有機化合物です。化石化したもの使われていません。また、江戸時代の日本は鎖国をしており、外国との交易は限定されていたことから、海外から食料を調達することもほぼありませんでした。これらの事実は、江戸時代の日本が足元に日々降り注ぐ太陽エネルギーのみをエネルギー源とする完璧な循環型社会であったことを示しています。当時の日本人はリサイクルを徹底することで、現在の社会が目標とする持続可能な循環型社会を構築していたのです。

 江戸時代のリサイクル型社会は、日本人の精神性をも育みました。勤勉の精神がそれです。江戸時代を通じて開墾できる土地はほぼ開墾しつくされ、糞尿に加え魚肥の普及により土地への肥料の供給も十分に確保されていったなか、生産性をさらに向上させるには何をすれば良いかのか。答えは明らか、兎にも角にも勤勉に働くことです。江戸時代にはたくさんの農書が出版されましたが、そこには必ず勤勉は良いことだと書いてあるといいます。江戸時代後期に、相模の国、今の神奈川県で活躍した二宮尊徳の教えはその代表例といってよいでしょう。

なぜ日本の人口は4倍になったのでしょうか?

 ところで、江戸時代後期の人口はおよそ3000万人であったとされています。それが意味することは、完全リサイクル型の循環社会において日本という土地が支えることができると人口は、3000万人程度であろうということです。究極の循環型社会を構築しつつ人口増という成長を続けていた江戸時代も、後期になると山林の減少が顕著で、成長の限界に近づいていました。

 現在の日本人の人口は1億2000万人強と、江戸期の4倍の規模を誇っています。明治以降に増えた9000万人はどのようにして養われるようになったのでしょうか。まず思い浮かぶことは、海外貿易による食料輸入の影響でしょう。確かに現代日本は食料の輸入に頼っています。カロリーベースの食料自給率は平成元年(1989年)に初めて50%を割り込み、 2018年実績は37%にまでに落ち込んでいます。これで現在の日本の人口の半分にあたる6000万人相当の食料については、それがどこから得られているのかの説明がつきます。

 一方でこの事実は、輸入した食料に依存していない残りの6000万人相当については、日本の大地から供給された食料に依存しているたことも表しています。江戸後期に究極のリサイクル社会を実現し、極限まで開発し尽くした日本の大地が養うことができた人口は3000万人でしたので、6000万人となれば倍増したということです。明治以降、新たに開墾された土地としては北海道が挙げられますが、それだけで人口の倍増を説明できるとも思えません。なぜ明治以降、日本の大地はさらに倍近い生産性の向上を実現できたのでしょうか。その理由を知るには、海の向こうで発展を遂げた別の社会の物語を知る必要があります。それこそが第5次エネルギー革命へと至る道となります。

クルックス卿の歴史的演説

 19世紀末、英国科学アカデミーの会長に就任したばかりのウィリアム・クルックス卿はタリウム元素の発見や陰極線の研究で知られた当代一流の科学者でした。 1898年の英国科学アカデミー会長就任の機会を利用して、クルックス卿はのちに歴史的演説とされた会長就任演説を行います。彼はその演説において、もはや地球上には農業に適した未開墾の土地は残されていないことを指摘し、増えていく人口を支えるためには大量の肥料が供給されなければならないことを示します。その上で20世紀の需要を満たすには、チリ硝石に代表される天然の鉱物資源からの供給では間に合わないと警告しました。彼の試算では、早ければ1920年代、遅くとも1940年代にはチリ硝石は枯渇してしまうとされていました。ではどうすればよいのか。クルックス卿はこれからの科学が取り組むべき最重要課題として、その答も用意していました。彼の答えは、「空気から窒素を固定化する技術を開発すればよい」というものでした。

肥料の正体

 19世紀初頭、ヨーロッパでは化学分析の手法が編み出され、様々な物質や元素が発見されるようになっていました。植物の栄養素の解明は、ドイツの化学者ユストゥス・フォン・リービッヒの手によってなされました。当時のドイツは化学をけん引する存在であったうえ、ドイツの土地はヨーロッパの中で痩せていたため肥料に対する関心が高く、それがドイツが肥料分析の世界をリードすることにつながりました。リービッヒは化学分析の手法を駆使し、窒素、リン、カリウムが肥料の主成分であることを突き止めます。彼は、有機物を堆肥としなくとも、窒素、リン、カリウムを直接投与することで効果があげられると主張します。このように生物由来でない物質を無機物といいます。これは土を使わない水耕栽培の成功により証明されることになりました。

 こうした化学分析を通じて明らかになってきた栄養素は、微量しか使用されない金属元素も含めると、一般に全部で14種類が存在します。中でもリービッヒが肥料を分析することで見出した、窒素、リン、カリウムの3つの元素は、その必要量が多く、植物の生育に大きな影響を与える重要な元素として広く知られており、今日、肥料の三要素とも呼ばれています。

水と石灰と空気からパンを作る技術

 肥料の3要素のうち、化学合成を検討するターゲットとなったのは窒素です。リンとカリウムについては引き続き鉱物資源に頼らざるを得ませんでしたが、窒素だけはチリ硝石のような鉱物資源に頼らなくても、すべての人の前に等しく無尽蔵の資源が存在していたからです。空気の5分の4は窒素からなります。まさしく無尽蔵、取り放題です。1898年の演説でクルックス卿が指摘したのは、まさにこのことでした。

 クルックス卿が演説を行った19世紀末から20世紀初頭にかけて、人類の持つ化学の知識は飛躍的に進歩しており、アンモニアの合成には、反応容器に水素と窒素を入れ、温度を低くする一方で、圧力は高くするとよいことがすでに知られていました。

 こうした技術開発競争に勝利したのが、ドイツの科学者フリッツ・ハーバーでした。彼が開発した実験装置は、反応容器が200気圧という過酷な条件にも耐えうるよう設計されており、また生成されたアンモニアをすばやく分離するシステムにも知恵が絞られていました。彼はこの考え抜かれた実験装置を使って多数の触媒を試し、最終的にはオスミウムという貴金属を触媒とすることで、工業化が期待できるだけの量のアンモニアの生成に成功します。また産出量の少ないオスミウムに替わる触媒の研究も続けられ、スウェーデン産磁鉄鉱に含まれる鉄、アルミニウム、カリウム成分の混合物が最も触媒として効果が高いと結論づけられました。

 ボッシュ率いるBASF社のチームは、 1911年には仮工場から一日2トン以上のアンモニアを生産できるようになっており、その2年後にはドイツ南西部の町オッパウに本格的な工場を完成させます。こうしてクルックス卿の演説からわずか15年という歳月で、 人類は窒素固定化する技術を獲得することになったのです。彼らの努力により完成した窒素固定技術、通称ハーバー・ボッシュ法は、当時、「水と石灰と空気からパンを作る技術」と称され、大変な称賛を受けました。こうして大量のエネルギーを投入して食糧を増産する、第5次エネルギー革命の幕が上がったのです。

ハーバー・ボッシュ法がもたらしたもの

 こうして作られた人工肥料がもたらしたもの。それは人口の爆発的増加です。自然界において窒素を固定化できる量には一定の限界があったことになります。その自然界のくびきを、ハーバー・ボッシュ法は解き放ちます。空気中の窒素をどんどん固定化することで、地球上に同時に生存可能な人類をはじめとする生物の総量が飛躍的に拡大したのです。

 20世紀半ばになると、潤沢な肥料供給を前提に開発された高収量の品種が普及するようになり、農地からの穀物の収量は飛躍的に増えるようになります。「緑の革命」と呼ばれる成果です。それが人口の爆発的な伸びを支えました。20世紀初頭、16億人に過ぎなかった世界の人口は、 1950年には25億人を超え、20世紀末には60億人を突破するに至ります。この100年の間、とくに第二次世界大戦後の半世紀で世界人口の伸びは驚くべきものです。

 江戸時代に極限までリサイクル型社会を推し進めていた日本が明治以降、さらに人口を増やすことができた理由もここにあります。明治以降の日本は新しい技術を積極的に取り入れ、農業中心の伝統的リサイクル社会から、欧米流の工業中心の資源大量消費型社会への転換を推し進めました。こうして工業製品を輸出して得た利益で食料を輸入できようになったこと、人工肥料の使用により始まる農業の工業化により国内の農産物の収量が増えたことにより、さらなる人口の増加が実現できたのです。

 カナダ・マニトバ大学のパーツラフ・シェミルによれば、仮にハーバー・ボッシュ法が発明されなかったならば、現在この世に住む人口の5人に2人は存在しなかっただろうとされています。 別の言い方をすると、現在、生を受けているすべての人類は、その体の40%をハーバー・ボッシュ法により固定化された窒素原子に依存しているのだともいえます。要するに今を生きる私達は、その誰もハーバー・ボッシュ法の恩恵を受けているのです。

エネルギーの多様性

 エネルギー問題が難しいものになっている理由の1つに、そもそもエネルギーとは何者なのか、その実像をはっきりと正確に捉えることが難しい、ということが挙げられます。人類は類まれなる頭脳を持ったことで、目に見えないもの、触れることのできないものさえも想像することができるようになりましたが、そうしたものを言葉で表現しようとすると、どうしても抽象的なものになってしまうからです。

 科学的エネルギー研究の草分けであるガリレオ・ガリレイは、運動法則の研究において運動をもたらす力をどのように表現するかで悩み、インペトゥス、モーメント、フォースなど、力に関する似たような言葉をいくつも使っています。

 現在においてもなお科学の世界では、運動エネルギー、 位置エネルギー、熱エネルギー、電気エネルギー、光エネルギー、原子核エネルギー、化学エネルギーといった様々な表現がみられ、関連する計量単位も、ジュール、カロリー、エルグといったものに始まり、電気分野でよく使われるキロワット時や、石油のバレル、天然ガスのBTU(英国熱量単位)など、枚挙に暇(いとま)がありません。こうした現象が起こるのは、エネルギーというものが多様な形態をとることができるためです。それぞれのエネルギー形態に最適な計測方法が考案されていったため、エネルギーを測る単位は増えて行くことになりました。

エネルギーの語源

 エネルギーという、その言葉の由来を考えてみることにしましょう。私たちが普段から何気なく使っている言葉には、先陣たちの深い洞察が含まれていることが少なくないからです。エネルギーという言葉は、ギリシア語で「仕事」を意味するエルゴン(ergon)に由来します。このエルゴンに接頭語(en)をつけ、「活動している状態」を意味するエネルゴス(energos)という言葉ができ、そこからさらに「活動」を意味するエネルゲイア(energeia)という言葉ができました。これをもとに、19世紀に科学用語として英語でエナジー(energy)という言葉が創られています。日本には、明治に入って最先端の科学技術に科学用語のひとつとしてドイツから輸入されました。英語読みの「エナジー」ではなく、ドイツ語読みの「エネルギー」が日本において定着したのはそれが理由です。

 日本語で思考する私の脳にはエネルギーという外国語が馴染まず、それがエネルギーが何たるかについて深いところで理解する妨げになっているのではないかという思いを、私は捨て去ることができませんでした。それゆえ適切な訳語を探すことは、私にとってエネルギー問題を考える上で、長年重要な課題のひとつになっていました。

 こうして長年エネルギーの訳語を考え続けて私がようやくたどり着いたひとつの言葉があります。それは「ちから」という言葉です。科学用語としての漢字の「力」ではなく、日本古来の大和言葉である平仮名で書かれた「ちから」です。一説には「ちから」の語源は、霊魂を表す「チ(霊)」と「カラ(殻)」から成るとされます。チ(霊)とは、ククノチ(木の聖霊)、カグツチ(火の聖霊)、ヲロチ(蛇)などのチで、自然界に存在して活動したはげしい原始的な勢力、活力のことを指します。チ(霊)というエネルギーがカラ(殻)で包まれているもののことを、私たちのご先祖様は「ちから」と呼んだのです。古代の日本人は、あらゆる事物から「ちから」を感じとる人たちでした。事実、モノ(物)という言葉もまた、元々は霊魂を表す言葉として使われていました。

 現代の生きる私達は、エネルギーという言葉に初めて遭遇した明治初期の日本人が知らなかったことを知っています。質量とエネルギーの等価であること、すなわち物体はエネルギーの塊であるということです。これはアインシュタインの特殊相対性理論によって明らかになった事実で、世界一有名な物理の公式E = mc2 として知られるものです。この公式は明治40年にあたる1907年に発表されました。 古代の日本人が事物に霊性を感じ、エネルギーを内包するものを「ちから」と呼んだことは、極めて理にかなった表現だったのです。

アリストテレスのデュナミスとエネルゲイア

 もちろん鋭い感性を持っていたのは古代の日本人だけではありません。科学を大きく発展させた西洋人も、ガリレオやニュートンが出てくる以前は日本人と同じような肌感覚を持っていました。例えば古代ギリシアにはデュナミスという言葉がありました。潜在的な能力、技量といったものを意味する言葉です。この言葉に注目したのが、紀元前4世紀に活躍した知の巨人アリストテレスです。

 彼の思想の根底には、自然界のあらゆる運動や変化を体系的にまとめるということがありました。彼は、運動や変化には始まりと終わりがあることに注目します。中でも終わりの部分に彼は注目しました。そして終わりとは、その事物が運動や変化を通じて目的を達した状態だと捉えたのです。例えば、植物が種子から発芽し、やがて花をつけるような変化を見て、彼はこう考えました。「種子が内在する力を発現し、その目的を達したのだ」と。

 アリストテレスはこうした種子が持つ潜在能力のことディナミスと呼び 、目的を達して花となった状態のことを、働いている状態を表すエネルゴスから言葉を創作してエネルゲイアと呼びました。この考え方は日本語の「ちから」が持つ語感にとても近いものです。デュナミスとは事物にエネルギーが蓄えられていることを意味するからです。デュナミスはやがて英語のダイナミックの語源となり、力や動的なものを意味するようになります。

復活されたイエス・キリストと共に歩む自己救済 3その3に続く

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