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公開書簡⑩(聖母マリアについて)

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聖母マリアについて

 マリアとイエス・キリストへの感謝の気持ちを抱くその源泉とは、結果的に、イエス・キリストの人間による自己救済への道を示したことへの感謝の気持ちであります。既存の人間が時間をかけて、未来を切り開く道を身につけること選んだともいるでしょう。その選択に対して、神はイエス・キリストの復活で応えました。

 通常は、男女一組の夫婦によって子供を授かるものですが、マリアは、受胎告知という聖なる言葉を受け入れたことで、一人で子を授かりました。このことが、結果的に、イエス・キリストによる人間の自己救済への道を暗示しているような気がしました。授かるのは一人でしたが、育てるのはヨセフと二人で育てました。

 マリアやイエス・キリストを受け入れることの重要性とは、人間が、つまり、自分自身が、サルから進化したものではないことを自覚するために、必要なことだと思います。人はいかにして、地上における神、つまりイエス・キリストの後継者の人間であることを認識したらよいのでしょうか。それは神の救済によってそれはなされます。イエス・キリストと自分自身との関係が理解できるかどうかにかかっています。先祖代々ではなく、また、この世に生まれると自動的にそうなるのではなく、自分で望んで関係を持つのかどうかにかかわってきます。自分で宣言をしなくてはなりません。これが神との契約です。マリアが信者たちの精神的な母であり、復活されたイエス・キリストといつも共にあるという心を持ちます。

「聖母マリア」シルヴィ・バルネイ 著 船本弘毅 監修 創元社

この本を参考にして、本文の文章の引用をさせていただきました。

 口にしてはならないほど神聖な神は、最初から、この世が始まる以前から、彼のひとり子イエス・キリストのために、ひとりの母親を選びました。そして至福にさせたメシア到来の時が来ると、その母親の胎内から人間の姿となってこの世に生まれることができるような手はずを整えました。

 神はこの母親に、すべての被造物に対するよりも圧倒的に多くの愛を注ぐという、この上ない好意を、特別な方法によって彼女に示しました。つまり、神は天国のあらゆる恩寵(オンチョウ)、つまり、人類に対する神の恵みをご自分の宝の中から取り出して、すべての天使や聖人に対するよりもずっと多くのもので彼女を満たしました。そしてそれとともに、彼女をあらゆる罪の汚れから絶えず守り、このうえなく美しく完璧なものとしました。

 彼女はこれほどまでに純潔さと神聖さで満ち溢れているので、神のもとで、彼女以上に偉大な存在を人間は宿すことができず、神以外には、だれも心の中に彼女のことを思い描くことができません。そして彼女がこれ以上ないほどの神聖な光で常に輝いており、原罪の汚れから完全に守られていなければならなかったのは、かつて人類を罪に陥れた蛇に対して、申し分のない勝利をおさめるためでした。

 人類の救い主であるイエス・キリストのために、全能なる神の特別な好意と恩寵によって、聖処女マリアが受胎される瞬間に、あらゆる原罪の汚れから守られていたという教義は、神によって啓示されたものであり、全信者が絶えず断固として信じなければならないということを、我々は宣言し、表明し、定義します。

 このような内容を、1854年12月8日にローマ教皇ピウス9世は、「マリアは生まれながらにして原罪を免れていた」という「無原罪の御宿り」を教義として定めると宣言しました。

 この文章の中で、結果的に見て、旧約聖書に最初に登場する女性エバは神の意志に背く「不従順な処女」だったのですが、新約聖書に最初に登場する女性マリアは神の意志に従う「従順な処女」であったと考えることができます。

 ところで、「神の母」であるマリアは女神ではありません。また、神話の中に登場する女性でもありません。マリアは今から約2000年前に、イエスという名の息子を産んだ歴史上の人物であります。その息子はのちにキリスト教の始祖として崇められるようになり、それとともにマリアもまた神格化されていきました。

 論理的な考え方をすると、マリアは、神という無形の存在を人間という実体物に変換する役目でありました。マリアはイエス・キリストの土台でありました。原罪のない、神の子を宿すためには、原罪のない処女の肉体が必要でした。初期キリスト教会の教父たちは、マリアの存在を、神による人類救済の歴史と結びつけ、新約聖書はマリアによって開始されたものであり、マリアが受胎告知という聖なる言葉を受け入れたことにより、神と人間の間に新しい契約が結ばれることになりました。

 マリアの処女懐胎と、エジプトやギリシャ神話の女神たちの処女懐胎が似ていることは否定できません。しかしこの二つには違いもあります。マリアは言葉によって受胎告知を受け、言葉によってそれを承諾したのであり、神と肉体的に交わった訳ではありません。すなわち、この場面は全面的に精神的な状況の中で展開され、官能性は完全に排除されています。唯一の確かな資料は、古代社会全般にわたって処女懐胎の伝説が普及していたということであります。処女懐胎が神の伝統を比喩的に表現した象徴であると考えられていました。性行為とは完全に切り離されたマリアの姿こそが、女性の究極の神聖さを表すものだとみなし、そのような側面がなかったなら、マリアはイエス・キリストの母としての地位を与えられることはなかったでしょう。

 歴史を振り返ってみると、聖書の原点に立ち戻ることを提唱したユマニスト、つまり人文主義者たちや、スイスのツウィングリ(1531年没)やカルヴァン(1564年没)、ドイツのルター(1546年没)などの宗教改革者たちは、マリア信仰を迷信であり偶像崇拝だと非難していました。宗教改革者たちは、聖書の福音書を最優先するユマニストたちの思想を引き継いでいました。「聖書のみ」に価値をおく彼らは、マリアの役割も福音書に書かれていることだけに限定し、それ以外の要素を付け加えてはならないと主張しました。そのため彼らの考えによれば、人類の救済の歴史においてマリアが積極的な役割を果たすことはない、としました。また、「聖母被昇天」と「無原罪の御宿り」についても、聖書に記述がないために否定しています。しかし、宗教改革者たちはマリアを、神の「はしため」としての信仰に生きた女性という点からは賛美しました。

 時代は進み、1720年頃、「理屈っぽく」なったカトリック教会では、各地で報告されたマリアの奇跡や出現が「本物」であるのかどうかを判断するために、今まで以上に厳しい基準が定められました。そして何事にも合理性が求められるようになった1750年以降のヨーロッパ社会では、「神の光」にかわって「理性の光」が人々を導くようになり、マリア信仰も奇跡を中心とするものではなくなりました。

 更に時代は進んで、ローマ教皇ピウス12世は、1950年に「ローマ教皇の無謬性(むびゅうせい)」、つまりローマ教皇は教理や道徳に関する聖書の言及において判断にまちがいがないゆえの特権を行使して、「マリアの肉体も魂も天の栄光にあげられた」という「聖母被昇天」の教義を独断で宣言しました。

キリスト教の歴史の中で、マリアの役割は長い間論争の的となってきました。しかし、さまざまな議論を超えて、確実に言えることが一つあります。それはマリアの姿には、人間が求め続けてきた神の姿が、確かに反映されているということです。だからこそマリアを描いて世界中のイコン、つまり聖画像や彫像は、神聖な美しい輝きに満たされているのであります。

 イエス・キリストはご自身の死によって、既存の人間たちの罪と自らの死に打ち勝ちました。また洗礼によって超自然的に生まれ変わった者は、イエス・キリストと同じように罪と死に打ち勝つのです。しかし、一般的な法則として、この世の最後が訪れる時まで、神は正しい人々が死に対して完全な勝利をおさめることをお認めになっていません。それゆえ正しい人々の肉体でさえも死後には腐り、この世の終わりを告げる時になって初めて、栄光に満ちた自分たちの魂と結びつくのです。

 ところが、神は、聖処女マリアがこの普遍的な法則から免れることをお望みになりました。例外的な特権を得た聖母マリアは、「無原罪の御宿り」によって罪に打ち勝ったので、墓の中で腐敗する法則にも従うべきではないと考えました。非の打ち所がない神の法則の守り手であるイエス・キリストが、永遠の父と同様にこの上なく愛する母を、尊敬しないでいることなどできなかったからであります。彼は彼女を最大限の栄誉で飾ることができたので、彼女が墓の中で腐らないように守りました。それゆえ、これがイエス・キリストによって実際に行われた出来事であることを信じなければなりません。(2023/3/18/・修正)

 したがって、永遠の処女である汚れなき神の母マリアが、この世で生涯を終えたときに魂も肉体も天の栄光にあげられたことは、神によって掲示された教義であるということを、我々は宣言し、表明し、定義する。

カトリック教会文書資料集より

続く

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