心の身体化
「脳科学とスピリチュアリティ」の著者である、マルコム・ジーブスと、ウォレン・S・ブラウンは、著書の中で発言します。我々人間は、私とは物質とは異なる存在である、というこの強い直感を持っています。誰もが身体とは別の自己、あるいは心を経験していますが、それは多くの場合、身体に宿っていると考えています。私たちが持つこの直感は、私と考えを共有する友人たちによって、日々強化されていきます。誰もが皆、自分の心の内を隠しているのだと考えています。またその心には意思、思考、そして観念が含まれていて、すぐに行動に現れるものではありません。このことは、古くから非常に多くの人々が確信してきたことであり、その中には世界的に知られた偉大な思想家たちもいます。しかし、私たちのこの直感および非常に多くの人々と共に共有するこの直感は、間違っている可能性があります。それは、心が「身体化されている」ということかもしれません。
現代では、心と脳の関係が論じられますが、いわゆる心が脳を超越した何かではなく、「心が身体化されている」ということが多くの新しい研究成果として発表されています。心が身体化されているという主張は、神学的にも受け入れがたい観念ではなく、むしろ今後の多くの可能性を秘めた考えとして認められつつあります。
「認知革命」から50年、我々はいまだに何世紀も前に生じた疑問を問うています。すなわち、今日、どのように「魂」を定義したらよいのか、ということです。それは現在、我々が心について語るのと同じ方法で定義したらよいのでしょうか。その定義は、人間の根本的な本質についてどのように述べたらよいのでしょうか。我々は様々な部分が不明確な形でつなぎあわされた寄せ集めなのでしょうか。つまり、魂は身体あるいは脳に付着しているものなのか、それとも我々は心身の統一体であるのでしょうか。
西洋では、人間は非物質からなる不死なる魂を有し、その魂は心身になんらかの仕方で、そしてどこかで結合しているのだ、という信念が長く続いています。多くのキリスト教徒は、それが聖書の教えであると信じています。
しかし、優れた聖書学者によって、信仰者が魂についての別の解釈を行う方法が開かれています。それは、「身体化されている」という解釈であります。魂についての新たな見方を採用することによって、人間本性に関する聖書的人間像と、人間が統一体であることを強調する心脳関係についての神経心理学的な見方との間には、対立する要素はありません。
人類の歴史上そのほとんどで、私たち一人ひとりにはそれぞれ非物質的な部分である、心あるいは魂と呼ばれるものがあり、それは身体の中のどこかにあるに違いないという考えを我々人間は抱いてきました。その考えは、心身の関係を探る科学的アプローチの時代的な発展に伴って徐々に変化してきました。現在では心を、「身体のどこかにある何か」ではなく、脳の機能の特性とみなしています。心とは脳の中にしっかりと身体化されたプロセスであり、いわばコンピュータの中で作動している基本プログラムのようなものであります。しかし、我々が昔から伝統的に魂と呼ぶものも、同じように脳の中に身体化していると考えることが可能なのでしょうか。
脳の機能について、局在論者と全体論者の議論は、21世紀になっても続いています。今日でも、神経科学者の中には、脳としっかり結びついた局所の機能を探求している者もいれば、神経ネットワークの概念や、脳の並列分散処理機能を調べている者もいます。彼らが共通して強調していることは、脳の隣接した部分と離れた部分との信じられないほどの複雑な連結と相互作用であります。いずれの場合でも、心は脳から分離しているとする古い信念は完全に覆されてしまいました。今日、我々は脳で生じる事象と心で生じる事象との関連性があることを認めています。
さて、時として議論が起こらなかったわけではありませんが、現代では脳理論が、心の問題に関することを語ることについて、一般的に広く受け入れられることになりました。今度は心が脳でどのように働いているのかを明らかにする研究が始まりました。ちょうど二つの選択肢がありました。それは心が脳の特定の場所で働くとするものと、心が脳の全領域で働くとするものでした。やはり、歴史は繰り返します。
多様な形態の宗教的経験は、脳の様々な部位から生じるように思われます。要するに、人々が宗教的経験と受け取るであろう現象を作り出すために、大なり小なりの活動が生じれば、それで必要かつ充分とされる単一の脳領域は存在しないと考えられています。
脳イメージングには、核磁気共鳴画像法(MRI)、ポジトロン断層法(PET)、機能的磁気共鳴画像法(f MRI)という非侵襲的な技術が用いられています。MRIが人間の脳の解剖学的構造の写真を提供する一方、 PETやf MRIは、人間が特定の知的作業に関わっている際に多少とも活動している脳の領域を測定することが可能となりました。最新の技術である経頭蓋磁気刺激法(TMS)は、脳の構造にダメージを与えることなく大脳皮質の領域を一過性に停止させることが可能であるそうです。その意味で、その影響は「可逆的」で侵襲することはありません。
最新の画像研究で明らかになったように、これらの脳活動の変化は宗教的経験に固有のものではないようです。心は確かに、これらのより汎用的な神経システムの内での活動をある種の宗教的状態として解釈し、解釈にはその経験の宗教的背景や個人の経歴が反映されているように思われます。
以上のことから重要な結論が導かれます。「脳科学とスピリチュアリティ」の著者たちの見解では、はっきりと同定できる脳内の神経システムおよび構造を有している言語機能とは違い、宗教を脳の認知活動の基本的形式にまで還元することは不可能であるということです。宗教だけに特異的に関わっていて、他の生活形態には関与しないという唯一の脳における神経システムは存在しないようです。それは、日常の生活と宗教は完全に分離するどころか、多くの部分で重なっているからだと考えられます。
「科学が宗教と出会うとき」の著者、I.G.バーバーは、発言します。旧約聖書の創世記において、人間は、「神にかたどって」創造されたという主張は、他の被造物から人間を特別に区別しています。これは聖書が人間の合理性、自由意志、霊性、及び道徳的責任のような特質について言及しているゆえのことであります。
ユダヤ教とキリスト教の歴史におけるもうひとつの見解は、「神のかたち」という表現は、神に対する人間の関係に言及しているからであり、このことは、神の目的を世界に反映させることができる人間の潜在的可能性を示しているということです。人間の創造力は、神の創造力の一表現と見ることができます。「神のかたち」が、神に対する人間の関係を指しているとすれば、我々人間はそのことを、科学的研究の対象とすることができます。ここでいう「かたち」とは文字通りの二足歩行で歩く姿ではなく、意識や理性のことを指すと思われます。
「脳科学とスピリチュアリティ」の著者である、マルコム・ジーブスと、ウォレン・S・ブラウンは、著書の中で発言します。身体と魂という二元論は、キリスト教の歴史の中で最も広く行き渡っていると思われる人間本性に関する見方ですが、この見方は聖書を起源とするというよりも、プラトンから聖アウグスティヌス、さらにはルネ・デカルトへと続く一連の哲学上の学説を起源としています。この二元論的立場を強固にして、身体と心、あるいは身体と魂という概念上の区別を行ったのは、実はデカルトに負うところが最も大きいのです。自らの二元論にもかかわらず、デカルトは物理主義者でした。
当時一般に信じられていたように、身体が沢山の魂や非物質的な力の住処になっているということを、彼は信じませんでした。むしろ、身体の機能は物理的な「機械」として理解するのが最も適していると考えていました。動物の機能はこうしたメカニズムを超えるものではないと推測していました。デカルトの問題点はいかにしてこうした生物学的なメカニズムが結果的に人間理性に至るのかを解明することでした。彼は一つの魂、つまり理性的な心を保持することによってこの問題を解決しました。したがって、人間は理性的な魂を持っている点で動物とは異なると考えたのでありました。理性的な魂は不死であり、魂は物質的身体と松果線によって相互に作用すると考えました。
もしもデカルトが、現在の神経学が示す最新のデータを見ていたならば、理性が脳の機能の中に身体化されていると見なしたであろうと推測することは、理にかなったことです。デカルトなら、①心と脳の関連、人間と他の霊長類でいくつかの認知能力が重複していること、②宗教的経験と道徳上の意思決定が脳神経によって身体化されていること、を理解できたでしょう。 しかし、デカルトが物理主義者であるにもかかわらず、人間本性に関して、単一的な、つまり物理主義的な見方を心に描くことはできませんでした。なぜならば、この最新の知識を当時では得られなかったからであります。