公開書簡④(新しいキリスト教の内容はどのようなことでしょうか)

公開書簡
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新しいキリスト教の内容はどのようなことでしょうか

 新しいキリスト教を一言で表現すると、「復活されたイエス・キリストとともに歩む、自己救済」ということになります。

 イエス・キリストは罪を犯さない、犯せない存在として、この世に生まれこられた人であります。しかし、約2000年前のその時代においては罪を犯したと判定されました。それも死に値する罪を犯したとされました。イエス・キリストの行動や言動を、当時の彼らの「古い神観」と照らし合わせてみると、彼らにはそうせざるを得なかったと思います。イエス・キリストは救い主であります。民衆を救うために現実世界に生まれたといってもよいでしょう。「全能の神」がイエス・キリストを地上世界に遣わした「目的」と「理由」がかなえられなくてはなりません。イエス・キリストの存在と行動は、イエス・キリスト自身によって、最終的にこの矛盾を解消されなければなりません。解消されたからこそ、キリスト教のメシアとして今日まで慕われてきましたのだと思います。ここでの矛盾とは、絶対に罪を犯さないイエス・キリストが罪ゆえに殺されたということです。イエス・キリスト自身の罪ゆえに殺されたのではなく、反対に当時の民衆の罪ゆえに殺されたということを示してみます。十字架刑はその残忍性のため、ローマ帝国でも反逆者のみが受け、ローマ市民権保持者は免除されていた、最も重い刑罰でありました。

 なぜ、イエス・キリストの言動や行動が、現実世界の人間にとって異質のものと感じられたのでしょうか。イエス・キリストの主張する主旨は祭司長、律法学者や民の指導者にもわかったと思いますが、彼らはその国を従来通りのやり方で維持安定させることが任務でした。イエス・キリストと議論を行って、短期間に現実世界に変化をもたらすことが難しかったのだと思います。つまり、彼らにとってイエス・キリストの福音と現実の社会との関係性の確立や実証性などを確認しなくては公式的には認められない立場にありました。したがって、イエス・キリストに対して超法規的な対応はできなかったと思います。

 祭司長、律法学者や民の指導者には現実世界のこれからのあるべき姿というものが見えなかった、イメージすることができなかったともいえるでしょう。彼らには現実世界のシステム維持を肯定する方向についてのみ理解、実行可能でした。イエス・キリストの言動や行動は、普通に考えると性急すぎたとも言えますが、イエス・キリストを中心に対応すべきでありました。一つ一つ時間をかけて確認しながら遂行することはできませんでした。現実世界の時間の流れに沿ってというわけではなく、自分の伝えるべき福音を短期間ではありましたが、伝えて行かれました。当時の人間たちは十分に対応できませんでした。なにしろ2000年経過した今でもイエス・キリストについて研究しているくらいですから。

 罪とは、私達と神様の間に大きなへだたりがあることです。当時もっともすぐれていたと思われるユダヤ民族であっても「現実世界で生きているメシア・神」に対して十分といえる対応はできませんでした。

 しかし、全能の神がイエス・キリストをこの世に遣わして下さったことが、まさに橋を作ることであり、「全能の神」とのへだたりをなくしました。それで、今私達は「全能の神」と近くなりました。「復活されたイエス・キリスト」によって私達は「聖なる部分」を授かりました。

 イエス・キリストは、大過なく一生を過ごすことができればよいのではありませんでした。後ろ指をさされないような生き方をすればよいのではありませんでした。立派な人生、大発明、大発見をするとか、そういうことではなく、イエス・キリストの人生は、普遍的な教えを示すためのものでありました。

 イエス・キリストは、「全能の神」からゆだねられた福音を持ってこられましたが、最後に、大衆はイエス・キリストに「自分で自分を救う方法」を尋ねました。大衆は言いました、「自分で自分を救ってみろ、そして十字架から降りて来い。」この問いに答えることが、イエス・キリストにとって肉体をもって明かしされた最後の福音となりました。「自分で自分を救う方法」を自らが十字架にかかって最後に示されました。それは、「罪を犯していないのに捉えられ、裁判にかけられ、そして死刑の判決を受けて、十字架にかけられ殺されること」でありました。イエス・キリストは、暗殺されたのではなく、正式な手続きを取って殺されました。

 この方法が当時の人間たちとメシアとの妥協点であったのだろうか、と思われるのです。いろいろな準備を整えて、満を持してメシアを現実世界に送った神でしたが、おそらくメシアとしては心半ばでありながら、この世から去って行かれました。ただ、十字架にかかることは自ら予言されていました。これが真理の教えであるということは、イエス・キリスト自身が身をもって示すことしかありません。言葉だけでは信じられないと大衆は考えます。本当にそのように殺されてしまいました。しかし、死後、復活されたということは全能の神が、その行為が御心にかなったものであったと示されたと理解してよいでしょう。

 結局、当時の人間たちが望んだことは何だったのでしょうか。それは、神が示された計画に従うことではなく、自らが現実世界の主人として振る舞うことを譲れなかったのだと思います。神は、現実世界における実体者としての神ではなく、見えない神を「復活したイエス・キリスト」として再び現実世界に送られました。私は、新約聖書を読んでみて、そのように思いました。

 イエス・キリストの十字架の死、そして復活されたことは、私たちの罪が赦されたことを心に刻みつけ、自分たちの新しい生き方を顧みるためであったと思います。教会にとってイエス・キリストの死は、むなしいものではありません。十字架も、もはや忌まわしいもの、挫折と敗北のしるしではありません。神様が人間を愛してくださっていることが、十字架に示されているというと信じるからです。このことを理性で理解するのは難しいかもしれません。けれどもキリスト教が十字架を高く掲げる理由は、ここにあると思います。

 さて、復活されたイエス・キリストとは、どのような方なのでしょうか。また、肉体をもってメシアとして来られたイエス・キリストとはどう違うのでしょうか。これは私が思うことですが、肉体をもってメシアとして来られたイエス・キリストは、奇跡を起こすことができました。数々の例が新約聖書に記載されています。新約聖書に記載されている奇跡の例の解釈にはいろいろなものがありますが、私は、本当に奇跡の技を起こすことができたのだと解釈しました。

 新約聖書・ヨハネによる福音書 2章1-11節より、イエス・キリストの最初の奇跡です。この奇跡を分析してみます。

新約聖書・ヨハネによる福音書 2章1-11節より

三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、 世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、 酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 新約聖書に記載されている、イエス・キリストが婚礼で水をワインに変えた事件は、イエス・キリストが起こした最初の奇跡の記録です。常識的に考えると、時間性や構造性をまったく無視していて、簡単には信じられません。この奇跡は、物質に対して時間と空間の構造を超越させる行為であります。この事件については、いろいろな解釈があると思います。単なるたとえ話である、という解釈もあります。私は、本当にこのような事件があったとして解釈しました。ボージョレ・ヌーヴォーなどの新酒のワインでも作るためには、仕込みから最低三か月程度はかかりますが、イエスは熟成された上等なワインを超越した能力を使い、水から一瞬でワインにしてしまいました。このようなことが日常的にできてしまうと、既存の人間たちが今まで培ってきた通常のワイン製造技術が無意味なものになってしまいます。このことは特別の能力を持たない、一般の民衆にとってはありがたいことでありながらも、たまらなく恐怖であったのでしょう。

 当時の人間たちにとって、時間という要素は、現実世界における人間のあらゆる能力、可能性の源でした。現在においても、現実世界に生きる人間にとって、時間は神からのなによりの賜物であります。時間は何でも解決できます。悲しみも時間がたてば癒されるし、生物の進化も時間が解決します。

 創造的な仕事をしようとするとき、人間にとって地上での生活は永遠ではないので、物事を成し遂げるためには、世代を超えて続けていく必要があるものもあります。命とは、この世に生存して、活動できる時間のことです。イエス・キリストが説いた「愛」も行動、つまり実際の活動を伴います。愛は思いだけではありません。

 奇跡は、空頼みではなく、神さまにお願いしたら、本当に願いが叶ってしまう恐ろしさ、そのことで反対に人間の無力さを実感するでしょう。新約聖書は、そういったことを自己認識するための、人間であることをあらためて自覚するための書である、といってもよいでしょう。だから奇跡と同等のことを通常の人間が行おうとしたならば、終わらないこと、人間が、世代を超えて自力で創造できるように、地上世界には永遠に人間の存在のための時間が流れ続けることが重要となります。人間が神のようになるためには、果てしない時間が必要です。もしも人間が神のような創造力を身につけることができたとしたら、そのとき時間という概念は消滅するでしょう。

 イエス・キリストは、死者に命を与えることもできた、正に神の子と呼ばれた人間でありました。イエス・キリストの死後、普通の人間が従来通りの「時間という要素」を使い、復活されたイエス・キリストと共に未来へと歩んでいこうとする地道な努力過程を、「進化」もしくは「科学」などと呼ばれるようになりました。

 肉体を持ったメシアは奇跡を起こすことができました。奇跡は、時間超越性と空間超越に分けられます。ワインに瞬間的に作ったことは、時間超越性であり、水をぶどう液に変えたのは空間超越性です。構造超越性と言ってもよいでしょう。その二つの能力で、水からワインを瞬間的に作りました。

 イエス・キリストは、時間超越性という、時間をネットワークのように自在に操る権能を持っていました。正確に表現しますと、イエス・キリストが持ってこられたものは、「時間超越性」というものです。これは隠喩的表現としての理解ですが、時間は、イエス・キリストの肉体に関する能力であると考えることができます。もちろん通常の時間と呼ばれるものは、イエス・キリストがこの世にお生まれになる以前からありました。だから、メシアとしての肉体をもって表現されたイエス・キリストは、「時間超越性」となり、物体に対して時間をネットワークのように自在に操る権能ということになります。 旧約聖書に記載されている、神が行った技の内で、何よりも先に行われたのはイエス・キリストを生むことでした。それは、「ニケア・コンスタンチノープル信条」において、以下のように記載・表現されています。

 この記述によって、私は時間とは、イエス・キリストの肉体であると判断しました。新約聖書の記述によりますと、イエス・キリストは、死者に命を与えることもできました。正に神の子と呼ばれた人間でありました。死者に再び時間との関連性を復活させました。つまり、命を与えたということです。

 神からのすばらしい提案があったにもかかわらず、既存の人間たちは、「従来通りの時間」という要素を使う道を選びました。イエス・キリストは、奇跡の技をこの世に伝えようとしましたが、最終的に、大衆の合意によって十字架に架けられて殺されてしまいました。

 しかし、神の人間に対する絶対的な愛のあかしとして、イエス・キリストを復活させてくださいました。結果的に現実世界の人間は、イエス・キリストの死後においては、復活したイエス・キリストとともに未来に向かって、ゆっくり歩むということになりました。復活したイエス・キリストは眼で見ることはできません。人間の第六感を働かさなければ知ることはできないかもしれません。結果的に、人間は復活されたイエス・キリストとともに歩むことで栄えるという運命を選びました。「時間超越性」、もしくは「時間主管性」は封印されてしまいました。

 もう一つの「空間超越性」、もしくは「空間主管性」は復活されたイエス・キリストとともに歩むことによって得られる、人間の福音となりました。復活されたイエス・キリストは空間超越性を管轄していて、その主管者であられます。

 本来、現実世界にお生まれになった、イエス・キリストは、時間的超越性と空間的超越性という権能を所有しておりました。だからこそ、聖書に書かれているような奇跡を起こすことができたのです。ただ、新約聖書より得られる情報によりますと、イエス・キリストの体は子孫を残さずに失われてしまったので、時間の超越性というものに関しては、人間が現実世界からアクセスできなくなくなり、封印されました。人間に対する、神の絶対的な愛の恵みによって、イエス・キリストは復活され、空間的超越性に関しては、復活したイエス・キリストにより、空間的主管性、もしくは構造的主幹性として人間に開示されるようになりました。

 このような経緯で、人間は従来通りの「時間というアイテム」を使い、また、復活されたイエス・キリストとともに歩むことによって、空間的主幹性の恩恵にあずかることができるようになり、従来通りの時間と、空間主管性という二つの要素を駆使し、進化とか科学などと呼ばれる手法を得て、今日に至っているのです。

 ところで、ニケア・コンスタンチノープル信条とは、どのようなものでしょうか。教会は、その歴史の最初から、いろいろな問題に直面しました。その主なものは、イエス・キリストに関するものでした。そのために教会は公会議を開き、自分たちの信仰を、より正確に言葉で表現してきました。こうして325年に開かれたニケア公会議と、381年に開かれたコンスタンチノープル公会議によって決められた信条をひとつにまとめたものが、この信条で「教義的信条」とも呼ばれます。この信条は、すでに長い間、ミサの信仰宣言として唱えられています。

 イエス・キリストは、時間的、空間的超越性を実体化した存在でありました。十字架の死によって、一旦は時間的、空間的超越性は失われましたが、イエス・キリストが復活されたことにより、空間的超越性だけは人間の福音となり、人間の歴史に刻まれました。新約聖書に記載されている、十字架の上の死の場面で、「天幕が裂けた」との記載がありますが、これは空間的主幹性が人間にために開かれたことを暗示している表現であると思います。復活されたイエス・キリストとともに歩むことで、空間主管性の恩恵にあずかることができます。

 空間的主管性とは、基本的に物の構造に関する権能のことであります。ミクロな量子の世界からマクロな宇宙の構造まで取り扱う権能のことを指します。空間を取り扱うことから航空機やロケットなどの発達にも関連します。さらには、遺伝子の構造や脳科学の分野など多岐の分野にわたって科学と技術の発展が人間に与えられたのは、実は復活されたイエス・キリストの加護、つまり、空間的主管性、構造的主管性が人間に与えられたからなのです。しかし、これらは、努力すれば報われるということなので、一方的に与えられる恵みではありません。このことは、新約聖書「マタイによる福音書 7章7~14節」に記載されています。

新約聖書・マタイによる福音書 7章7~14節

求めなさい

求めよ、そうすれば、与えられる。探しなさい、そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

狭い門

狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入るものが多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者が少ない。

続く

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